５章　ハマム

三日目の朝、朝食の席に現れたYさんと挨拶を交わすと太いガラガラ声なので「Yさん、喉を痛めました？」と聞くと、「二日間笑いっぱなしで、声が枯れちゃったのよ。もう新宿二丁目のオカマみたい」と言いながら、また笑い出す。そういえば移動のバスの中でも、買い物で店員相手に値切る時でも、食事の時でもYさんの周りには笑い声が絶えない。こういう人と一緒だと、「旅は道連れ、世は笑い」という感じで本当に楽しい。

今日はまずメディナの絨毯屋で買い物をするというので、わざわざ迎えに来た絨毯屋の主人の案内で、迷路のようなスークを右に曲がって、左に曲がってトンネルになった細い坂道を下ろうとすると、ロバに引かれた荷車が反対側から上がって来た。我々はトンネルの入り口まで一旦戻って、ロバが抜け出るまで待つ。そうかと思うと人二人すれ違うのがやっとという狭い道を、減速せずにクラクションを鳴らして我が物顔で走り抜けるバイクには、思わず身体をのけぞって避ける。「全くここの人達は、通りゃんばんばんですねぇ」と、Tさんが独特の言い回しで呆れる。「お母さん、その『通りゃんばんばん』ってどういう意味ですか？」と私が聞くと、暴走オートバイからお母さんを守っていたKさんが、「『通りゃんせ』、が『通して下さい』とお願い口調なのに、『許可も得ずにばんばん通過していく』のが『通りゃんばんばん』という、お母さん流の表現なんですよ」と解説してくれた。『スロッ平』に『通りゃんばんばん』ですか。Tさん語録でも編集しようかな。

到着した絨毯屋で、Aさんは予め寸法を測ってきた大きさの絨毯を指定し、様々な色・模様の絨毯を見比べてから、気に入ったものを何種類か床の上に敷かせて「目移りがするなぁ」と、奥さんのIさんと一緒に吟味を始める。Aさんが首を捻ると絨毯屋の販売店員が「見テコイ！」と別の絨毯を持ってくる。「見てこい、じゃなくて『見て下さい』でしょ」と、Aさんが店員のおかしな日本語を注意する。「ハイ、見テクダサーイ」と次の絨毯をドサーっと床の上に広げるので、埃がバラバラと周りに散らばり、喉を痛めているYさんは耐えきれなくなって、スカーフをマスク状にして口と鼻を覆う。Aさんが最終的に決めたクラシック模様の絨毯は、織り方も丁寧で毛も厚いのでかなりの値段だろうと、私は興味津々Aさんの交渉ぶりを見ていた。相手の最初の言い値は2,500ユーロ、つまり約33万円。そこから丁々発止のやり取りが始まり、電卓の押し合い、筆談、「My friend, good price!」の売り手の常套文句、そして買い手「No, no, no! Discount!」と、「Good-bye」と交渉を打ち切る素振り。慌てて買い手の袖を引っ張っった売り手の「OK,OK, last price」の繰り返し。30分近く粘ったAさんはついに800ユーロ(≒10.5万円)まで下げさせた。凄いじゃないですか、言い値の1/3に値切ったんですね。

一日の疲れを落とすには入浴が一番。ここモロッコには「ハマム」というアラブ式蒸し風呂がある。ハマム(hammam)とは公衆浴場を意味するアラブ語だそうであるが、町の中にある大衆向けのハマムは日本の銭湯のようなもので、男女別の入り口に番台があり、そこで一人30DH位の料金を払い、頼めば追加料金で垢すりやマッサージをしてもらえるものらしい。「らしい」というのは、我々がホテルからゾロゾロ歩いて行った「リアド・イシス(Riad Isis)」という高級ハマムは主に外国人観光客用で、入浴・垢すり・顔と身体のマッサージが最初からセットで、料金一人550DHというものだったからである。鍵付きのロッカーに脱いだ洋服や貴重品を預け、パンツ一丁になってその上に入り口で渡されたバスローブを着て、呼ばれるまで待合室で待機する。

今回のメンバーで男性は私を含めて四人。まず私とAさんが呼ばれてマッサージルームに案内される。バスローブを脱いでマッサージ台に俯せになると、私には若い女性（ラッキー！）、体格が良いAさんには男性のマッサージ師（Aさんガッカリ？）が担当し、全身オイルマッサージと足裏つぼマッサージを30分施してくれた。イテテという位、力一杯揉んでくれるのかと想像していたが、エ？この程度といった強さで、Aさんなどは施術中に「Harder, please!（もっと強く！）」と注文していた。身体のマッサージが終わると仰向けになれと言われ、顔にヒンヤリとする液体を塗られて鼻以外はガーゼを当てられる。無言で進行するのでこの先どうするのかと思っていたら、鼻の表面の毛穴に詰まった脂をいきなりピンセットのようなもので引っ張り出すので、思わず「イテッ！」と叫んでしまった。この「イテッ！」が三、四回続いた後、ガーゼが外されて暑い蒸しタオルが顔全体を覆う。さらにオイル（アルガンオイル？）状のものがまんべんなく顔と首に塗られ、１分程そのままの状態にされ、タイマーが鳴ったら顔のオイルをタオルで拭いてくれた。これでマッサージは終わりのようだ。

次は未使用のバスタオルと、垢すり用ミトンを手に持って浴場へ向かう。日本の銭湯のような広い浴場を予想していたが、十五畳程度の狭い部屋に入ると、ベンチが両脇の壁に添って置かれ、部屋奥の水道蛇口の下にはバケツが置かれただけで、その横に白衣を着た女性が一人立っていた。我々の隣室でマッサージを終えたMさんとPさんが既にベンチに腰掛けていた。四人揃うとその女性は我々を一人ずつ手招きすると、何も言わずにいきなりバケツのぬるいお湯を頭からバシャー、体の前へバシャー、クルリと向きを変えさせて後ろからバシャーと浴びせたのである。「えー、この濡れたパンツはどうなるの？」と私が思わず日本語で叫ぶと、彼女はそれには答えず（もちろん日本語だからわからないだろうけれど）、「10 minutes」とだけ言って、入口の扉を閉めて部屋から出て行ってしまった。蒸気で満たされた狭い部屋に四人の男性が一度に座ったので、たちまち汗が吹き出てくる。サウナで一緒になった人と交わすような「暑いっすねぇ」、「ここから出たら冷たいビールを飲みたいですねぇ」、「あ、でもこの国では無理じゃない？多分ミントティでしょ」みたいな会話をしていたが、四人の中ではPさんが一番蒸し暑さに耐えられないようで、しきりに身体を動かしている。私が「パリにもこういったサウナ・マッサージハウスって有るんですか？」と聞くと、「Oui」と答えて「でも自分はあまり好きじゃない」という返事。やっぱりね。

白衣の女性は10分後に部屋に戻ってくると、一人ずつ順番に自分の前に手で招くと、バケツの水を全身にかけて今度は石鹸を身体中になすりつけ、垢すりミトンでゴシゴシ擦り出す。後の三人は黙ってそれを見ているだけ。垢すりが終わるとまた水をかけられ「Finish！」で一人ずつ部屋から退場。二階の待合室でミントティーを飲みながら女性全員が終わるまで待っていたので、結局全て終わるのに三時間かかった。このハマム体験の余談がひとつ。今回最年少参加者はSさんのお嬢さんで20歳。マッサージと蒸し風呂で血のめぐりが良くなったのか、帰路歩いているうちに鼻血が出てきてしまい大慌て。ティッシュを鼻に詰め込んでいたが、「若いっていいわねぇ。私なんて逆さに振ったって、鼻血も出て来ないモン」と、ひがんでいたのは誰？