８章．カルメンの夕べ

7月27日プルコヴォ54便は荷物棚騒動（２．モスクワからサンクトへ参照）が有ったり、かなり酔っぱらった乗客がシートベルト着用のサインが出ているのにフラフラ乗務員席まで歩いて行って、「酒をよこせ」とウオッカの空壜を突きつけ、複数の乗務員に無理矢理座席に押し戻されたりと、賑やかな飛行だった。午後６時１５分にシェレメーチボＩ空港に着陸した時この酔っ払いは鼾をかいて眠っていたが、腹を立てた乗務員は起こそうともしなかった。

空港から国道１号線を約４０分走りＩ君宅に着き、シャワーを浴びた後にモスクワの繁華街にある「カフェ・マルガリータ」というライブ演奏が売り物のバーに繰り出した。グルジアワインを飲みながら待つこと小一時間で、バイオリン二重奏が始まった。クラシック演奏技術に裏付けされた見事なテクニックで、「イパネマの娘」、「シャドウオブ・ヨア・スマイル」などのスタンダード曲をいとも簡単に奏でる。リーダー のピアニストは日本に何度も来たことがあるそうで、日本語で「ガンバッテくださァーイ」、叫び、ウオッカをあおりながら楽しそうに演奏を続けた。

店全体が盛り上がった時、突然飛び入りの女性が信じられないほど素晴らしい歌声を響かせ始めたのにはビックリした。いきなりモーツァルトの「ドン・ジョバンニ」、そしてグルーノーの「アベ・マリア」を酒場中を震わせるようなソプラノで歌うのだから、ここはコンサート会場か？と思わず辺りを見回してしまったほどだ。彼女は男性バイオリン奏者の妻で、二人共プロのクラシック音楽家でパリとモスクワを往復して公演しているということを後から聞いた。そんなレベルの高いパフォーマンスを街の酒場で見られるなんて、ロシア音楽水準は凄い！と思った。最後に彼女は私達のためにビゼーの「カルメン」のハイライトをオペラ風に演じてくれたが、至近距離で美しいプリマドンナに迫られ、鼻の下を伸ばした男性陣であった。こんなハプニングならいつでも大歓迎である。

興奮覚めやらずＩ君宅に戻った我々は、シャンペンのドンぺリニョン1990年物を開けてモスクワの夜の2次会を続ける。あんなに素晴らしい歌を聞いた後に、レーザーディスクカラオケを操作して、ダミ声を張り上げて「♪与作は木を切る〜、ヘイヘイホー♪」、「♪トントントン」、と夜中の２時近くまで歌っていたのであった。カフェ・マルガリータで感動した美しいソプラノとは、似ても似つかわしくない酔声であったことは言うまでもない。